会社に入るんだったら個性は捨てなきゃ。それ以前に日本で暮らすなら個性を捨てなきゃ。
2012年 10月 11日
こんばんわ。
そしてアクセスありがとうございます。
ながたこいらと申します。
おいらは会社員の経験もありますが、とにかく社内では抜きん出ることは悪とされていました。自分のペースを守ることよりも会社のペースに合わせることが一番大事なことでした。
個性とかたとえば人権とかを声高に言う人たちはいてはいけない場所だったのです。ですが、その代償として会社員としての身分や福利厚生や社会的地位が保証されていたのです。
個性を大事にしつつ、なおかつ良い待遇を求めるということは、普通の会社ではまず不可能だし、たとえば芸能事務所や音楽事務所みたいなところでも不可能だと思います。
日本社会は、自分のやりたいことを好き放題精一杯悔いなくやれて、なおかつ社会的、世間的にも受け入れられる社会ではないのです。
おそらく、個性を貫いて成功しても、世間というか社会は「平均の強制」で成り立っているから「出る杭は打たれる」じゃないけど叩いてきます。そこから叩き返すためには、ものすごい葛藤と努力と苦悩を経験しないといけないのかな?とも思っています。
いわゆる天才ってよばれる方々は、皆この苦悩と常に共存しているようなものです。日本という国に生まれ、日本語という言葉を使っている以上、世間との終わりなき闘いを強いられるのです。
夏目漱石なんかは「近代的な個性と世間との葛藤」を一番理解して取り上げた作家です。
※http://www.kininaru-k.jp/より抜粋。夏目漱石。
漱石が不倫や姦通を取り上げたのは、それが日本の「世間体」に背くものであったからです。明治維新以降の欧米の近代化の導入によって、江戸時代からの封権的な世間との間で人々が苦しんでいく様子を文学として描写していたのです。その根底には、彼自身産みの親と育ての親が違うということで日本の「世間」とは違和感を覚えていたという実体験があったのです。
戦後になって、民主主義がアメリカから入って来て、誰もが人として個性的に生きる権利があると誤解して身に付いた人権思想って、結局日本には根付くはずがないのです。人権ってことが前提になれば、私権を制限する国家というものと常に葛藤しなければいけないし、政治みたいなものを全「サービス」みたいなものだと勘違いして、国民は消費者みたいな存在でしかない、っていうことになります。
ましてや会社員は「生産の現場である会社組織」で「労働基本権を行使してサービスとして給与や福利厚生などを消費する存在」ではないのです。労働の対価として賃金はありますが、それは会社組織への貢献、ひいては生産活動による経済的利益をもたらす国家への貢献の対価であって、会社が給与を出すのは当たり前のサービスみたいな感覚とは違うのです。
一般の会社組織だけではなく、例えば芸能事務所や音楽事務所でさえ、利益を出さないタレントやアーティストは契約を打ち切られるのです。個人で全てやっていく上ではリスクが高すぎるので、たとえば最小限の活動の原資や環境を与える代わりに、ヒットを飛ばして事務所に利益を与えるという「責務」をタレントに課すのが事務所の役割で、会社組織と全く変わりません。
個性は、たとえ会社に入ろうと、自営業をやろうと、芸能界に入るにせよ、要らないのです、この国では。必要なのは個性ではなくって個別性なのです。
集団の中で役割を見つけ、集団に応じて自分を生かす割合と自分をわきまえる割合を見極め、なおかつタテマエと本音を上手に使い分けて、伸縮自在に場合場合によって自分の良い所をうまく出したり引っ込めたりする能力は、これからの日本には必要です。たとえ会社員であろうとミュージシャンであろうと。
この日本で上手く生きて行くためには個性は殺して個別性を生かしていくほうが楽しいと思います。それが「個」と「世間体」の折り合いの付け方だと思います。
※http://www.explode.jpより抜粋。ビジネスウーマン。
www.myspace.com/nagatakoira
↑myspace始めました。
ご意見、ご感想は↓こちらから。
ながたこいらお問い合わせフォーム
オフィシャルサイトは↓こちらです。
http://nagatakoira.syncl.jp
↓yahoo!壁紙募金
http://volunteer.yahoo.co.jp/donation/detail/1630001/index.html
↓あなたのワンクリックで救える命がある。
http://www.dff.jp
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おいらは会社員の経験もありますが、とにかく社内では抜きん出ることは悪とされていました。自分のペースを守ることよりも会社のペースに合わせることが一番大事なことでした。
個性とかたとえば人権とかを声高に言う人たちはいてはいけない場所だったのです。ですが、その代償として会社員としての身分や福利厚生や社会的地位が保証されていたのです。
個性を大事にしつつ、なおかつ良い待遇を求めるということは、普通の会社ではまず不可能だし、たとえば芸能事務所や音楽事務所みたいなところでも不可能だと思います。
日本社会は、自分のやりたいことを好き放題精一杯悔いなくやれて、なおかつ社会的、世間的にも受け入れられる社会ではないのです。
おそらく、個性を貫いて成功しても、世間というか社会は「平均の強制」で成り立っているから「出る杭は打たれる」じゃないけど叩いてきます。そこから叩き返すためには、ものすごい葛藤と努力と苦悩を経験しないといけないのかな?とも思っています。
いわゆる天才ってよばれる方々は、皆この苦悩と常に共存しているようなものです。日本という国に生まれ、日本語という言葉を使っている以上、世間との終わりなき闘いを強いられるのです。
夏目漱石なんかは「近代的な個性と世間との葛藤」を一番理解して取り上げた作家です。
※http://www.kininaru-k.jp/より抜粋。夏目漱石。
漱石が不倫や姦通を取り上げたのは、それが日本の「世間体」に背くものであったからです。明治維新以降の欧米の近代化の導入によって、江戸時代からの封権的な世間との間で人々が苦しんでいく様子を文学として描写していたのです。その根底には、彼自身産みの親と育ての親が違うということで日本の「世間」とは違和感を覚えていたという実体験があったのです。
戦後になって、民主主義がアメリカから入って来て、誰もが人として個性的に生きる権利があると誤解して身に付いた人権思想って、結局日本には根付くはずがないのです。人権ってことが前提になれば、私権を制限する国家というものと常に葛藤しなければいけないし、政治みたいなものを全「サービス」みたいなものだと勘違いして、国民は消費者みたいな存在でしかない、っていうことになります。
ましてや会社員は「生産の現場である会社組織」で「労働基本権を行使してサービスとして給与や福利厚生などを消費する存在」ではないのです。労働の対価として賃金はありますが、それは会社組織への貢献、ひいては生産活動による経済的利益をもたらす国家への貢献の対価であって、会社が給与を出すのは当たり前のサービスみたいな感覚とは違うのです。
一般の会社組織だけではなく、例えば芸能事務所や音楽事務所でさえ、利益を出さないタレントやアーティストは契約を打ち切られるのです。個人で全てやっていく上ではリスクが高すぎるので、たとえば最小限の活動の原資や環境を与える代わりに、ヒットを飛ばして事務所に利益を与えるという「責務」をタレントに課すのが事務所の役割で、会社組織と全く変わりません。
個性は、たとえ会社に入ろうと、自営業をやろうと、芸能界に入るにせよ、要らないのです、この国では。必要なのは個性ではなくって個別性なのです。
集団の中で役割を見つけ、集団に応じて自分を生かす割合と自分をわきまえる割合を見極め、なおかつタテマエと本音を上手に使い分けて、伸縮自在に場合場合によって自分の良い所をうまく出したり引っ込めたりする能力は、これからの日本には必要です。たとえ会社員であろうとミュージシャンであろうと。
この日本で上手く生きて行くためには個性は殺して個別性を生かしていくほうが楽しいと思います。それが「個」と「世間体」の折り合いの付け方だと思います。
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by keisuke-n1109
| 2012-10-11 17:54
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